現在、全国の電力会社の高圧配電線は例外を除き3φ6.6kVである。それなのに特別高圧需要家の2次側は3.3kVと6.6kVの所がある。なぜだろうか?。私が見聞きした限りでは戦前からある特別高圧需要家は3.3kVで戦後に新設された特別高圧需要家は6.6kVである。
電力OBの友人によると、配電関係の古老の話として、戦前、戦後は配電線電圧は3kV、5.2kV、6kVと種々雑多であり、この傾向は全国共通の悩みであったらしい。そこで、昭和34年4月(1959.4)に9電力の全国配電課長会議で、高圧配電線の電圧を6.6kVに統一し、15年をかけて実施する事になったようである。
特別高圧需要家の2次側電圧まで電力会社としては関知せず(出来ず)、現在でも戦前、戦後の3kVが生き続いている。そんな訳で3kV、6kVの電動機があったり、6/3kV共用の変圧器等が現在も製作されている。
もう50年近く前になる昭和37年(1962年)頃が私が就職した会社では東北電力の新潟地区の高圧配電線の昇圧工事用の6.6kVの自立開放型の高圧受電盤をジャンジャン造って出荷していた。
私が高校生(1959~1962)の頃、自宅横の木柱高圧配電線は何kVか不明であったが、高圧配線の張り替えで銅の裸線が太陽に当りピカピカ輝いていた事を覚えている。今考えると、その時分が北陸電力の3kVから6.6kV昇圧工事でなかったかと思う。
現在は、裸線が配電線に使われる事は無く全て絶縁電線である。それは、昭和40年代の後半より私の関係する高圧受電設備でも絶縁保護協調、動作時間保護協調がやかましく言われ始められたのと関係しているのかも。
その頃、我町にも出力500kW程度の北陸電力の水力発電所があり、夏になると水車を止めて鮎を取っていたと発電所近くの同級生が言っていた。のどかな時代であった。水主火従の時代から火主水従の時代となりその発電所も何時の頃か撤去されてしまった。